楽園

 僕はコーヒーのボトルをいくつも持っている。いろんな種類のコーヒー豆が入っているんだ。毎朝、今日はどれにしようかと迷うのが僕の楽しみ。コーヒーは大好きなのだけど三ばいまで、それいじょうは駄目だ。胃が悪くなるし、夜、眠れなくて困るから。
 ある日、僕は妙なことに気がついた。ミモザ色のボトルに入っているコーヒー豆は前の日の朝、空っぽになっていた。このコーヒーはミモザの花の香りがする。ガレージセールのリサイクルショップで買ったものだ。そこは不定期にセールをしていて、ショップの種類はそのつど変わる。もちろん、ガレージの持ち主はおなじだが、いくつか出店しているショップの店主はいつも違うというわけだ。何度も顔を見る店主もいるが、一度きりという店主もいる。このコーヒーはその一度きりのショップで買った。店主は白いターバンをつけているあさ黒い顔の男だ。アジアのどこかの国の人だろう。片言の日本語で、コーヒーをはじめとして、木の実やスパイスや香料の入ったボトルをいくつも並べて売っていた。セールをひやかしていた僕はコーヒーのボトルのミモザ色が気に入って手にとった。底がやけに厚いガラスのボトルだ。
「トテモオトクダヨ。アジモイイ カイナサイ」
 と言って目をつむった。大きな目だからパチンと音がするようなウインクだった。ボトルをあけると、うっとりする香りが胸にとびこんでくる。
「変わった香りだ。それに豆が砂粒みたいに小さいね」
「ボクハフナノリ。トオイシマデミツケタコーヒーノキ、ミモザノハナノカオリスル。メズラシイコーヒーダヨ」
僕はその香りから逃げられなくてあわてて言った。
「買うよ。すごくいい香りだ」
値札を見るとおどろくほど高価だ。しまったと思ったが買わずにいられなかった。
「ダイジョーブ ヤスイ ヤスイ」
 男は白い歯を見せて笑った。愛嬌のある顔だ。
 ミモザの香りするコーヒーは美味だった。コーヒーとしていままでにない調和があり、飲めば夢ごこちになる。誰にも飲ませたくなかった。ボトルの半分まで夢中で飲んだけど、あとはゆっくり一日一ぱいと決めて味わった。それでもいつかは空になる。きのうの一ぱいが最後だった。コーヒーがあまりに美味だったので、あれからはたびたびガレージセールをのぞいている。しかし、あのターバンの男には会えなかった。経験により一回きりのショップは多かったので、やっぱりなあとあきらめていた。もうミモザコーヒーは飲めないのだ。
 妙なことというのは、このコーヒーボトルのことなんだ。今日の朝、未練ぽくボトルを見ると、いっぱいにコーヒーが詰まっている。僕は目をぱちくりした。なんということだろう。嬉しくてたまらない。怪しいことだけど気にならなかった。あのコーヒーが飲めるのなら何があってもかまわない。
 僕はまた毎朝、とびっきりのコーヒータイムを過ごせることになった。たくさん集めていたほかのコーヒーにはすっかりごぶさただ。きっとカビくさくて飲めないだろう。なにしろミモザ色のボトルのコーヒーは無くならないのだ。空っぽになった日の次の朝には補充されている。なるほどオトクだと思いながら安心して飲みつづけた。
 僕はグルメ雑誌のフリーライターだ。僕自身がグルメであるかどうかは疑問だが書く記事には人気があった。仕事は順調、特にコーヒーについては趣味も加わって楽しんで書いていた。だからといって、この数カ月はひどすぎた。ミモザコーヒーに魅せられてからはコーヒーのことしか書けない。読者からも編集者からもついに飽きられて、僕は仕事をうしなった。
 それでも平気だ。僕にはミモザコーヒーがある。この味と香りを知ってしまったら、もう離れられない。仕事をうしなった僕はひまにまかせて何ばいものコーヒーを飲む。三ばいと決めていたのはいつのことだったのか覚えていない。食事さえめんどうだった。僕はだんだんやせていくど気分は最高だ。
 ミモザ色のボトルを棚から下ろすのがおっくうになっていたのでテーブルの上のワープロのとなりに置いたままだ。ある朝、背丈がテーブルの高さに縮んでいるのに気がついた。びっくりしたけど気にならない。ミモザコーヒーを飲んでいれば、いつも元気で楽しいんだ 。コーヒーのボトルや豆挽きや湯沸かしポット、コーヒーカップなどをすべて床の上に置いた。カップも洗わない。飲んではそのまま眠る。僕はどんどん縮んでいった。
 今朝のことだった。コーヒー豆をすくおうとしてボトルをのぞきこんだ僕はそのまま中へ落ちてしまった。もがいているとボトルの底にずるずる吸い込まれる。

「やあ、とうとうやって来ましたね」
 知らない人の声がした。ボトルの底の厚いすきまに素敵なティールームがあったのだ。僕が落ちてきた穴は天井のはしにある。その人は穴にふたをした。ティールームで五人の男性がのんびりコーヒーを飲んでいる。そこにはミモザの花の香りがするコーヒーの木が一本、豊かに実っていた。さっきの人が言った。
「この木の実は無くならないのです。ミモザコーヒーを一度でも飲めばここに来ることになります。その魅力から逃げることはできません。あなたがいつ来るかと待っていたのですよ。ここは楽園です。大好きなコーヒーを飲んで、コーヒーのことだけ考えていればいいのです。仕事といったらコーヒー豆を天井の穴から補充するだけ。簡単です。私たちにも職場とかがあったようだけど忘れました。ここのほうが何倍も素敵なんだ。ええ、これいじょうは縮みません。快適に暮らしましょう」
 僕は目がまわりそうだった。たいせつなことを忘れて来た気がする。テーブルの上に置きっぱなしのワープロが胸に浮かんだ。でもコーヒーの香りがすばらしい。飲みたいと思った。きっとこれが僕のたいせつなことなんだ。

 白いターバンをつけた男が部屋に入って来た。床に置いたミモザ色のボトルと、ほこりまみれの荒れた部屋のようすを見まわしてニコッと笑った。
「ボクノコレクション マタフエタ。ボク、シアワセナヒト ダイスキネ。ボクノノウエン トテモチイサイ。シアワセナヒト モットフエタラ ノウエンニツレテユク」

 男は船乗りだった。海で遭難し一人だけ助かった。その時流れついたふしぎな島は、何もかもが異様に小さくて男はガリバーのように過ごした。めずらしい植物と動物ばかりのこの島でミモザの花の香りするコーヒーの木を見つけた。幸いなことに男はコーヒーアレルギーだった。飲みたいとも思わずにコーヒーの木を観察しているうちに、その特性に気がついた。その実をつぶした汁を、いやがる小鳥にむりに飲ませたところ、指の先ほどの大きさだった小鳥が蟻より小さくなってしまったのだ。
 男はさまざまに苦労していかだを作り、沖へこぎだして助けられた。コーヒーの木を隠し持って国へ帰った男は、底に秘密のあるガラスのボトルを考案した。もともと十センチほどのコーヒーの木をもっと低く改良してボトルの底に育つようにし、増やした。男はとても賢く想像力に富んでいたのだ。貧しくて家族のいない男はあのふしぎな島の王様になりたいと思った。王様になれれば幸せになれる。賢い男は単純だった。島のサイズにあわせた労働者とお金が要る。世話をすれば役に立つ植物がたくさんあるし、船もほしい。コーヒーを飲んで幸せになった人たちと楽しく暮らそう。女はめんどくさくていやだった。男は注意深く、一人暮らしでコーヒー好きの男性を探してはボトルを売った。ボトルに落ちた人たちの資産を合法的に手に入れる。あの人たちは幸せなんだし、悪いこととは思っていない。あの島をターバンの男は楽園にできるだろうか。


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